命の選別

コロナ禍が一段落しているが、4月中頃から5月中、電車に乗っての通勤や通院はやむを得ず形上「自粛」した。

 この「自粛」に至った経緯はここでは省略するが、電車に乗っていようといまいと、どこでどうコロナウイルスに感染するか分からないが、なるべく感染へのリスクを避けるという意味では、不特定多数の人との距離を置くとか、自分なりに自分を納得させた。

 駅前の銀行に行く時も、いつもなら駅のエレベーターを使い駅舎内を通って駅の向こう側に出るところを、駅舎を通るのを避け、少しだけ回り道して人通りの少ない線路をくぐる道を選び、できるだけ人とすれちがわないようにした。

 もうあれから3ヶ月も経っているので、想いの移り変わりはあったのだが、以下、障害者としてのオレの思いを書いていく。

 世界的に感染者が増え続けているピーク時、ヨーロッパ諸国やアメリカ等は多くの人が感染し多くの人が重篤化し死んでいる。医療現場では重篤化した人の治療に使う人工呼吸器が不足しているという事態が起こっていた。そのような切迫した緊急事態の中、障害者が感染し重篤化した場合は、人工呼吸器を着けるのは後回しにすべきだと、つまりは健全者の命を優先して救うべきだとする声が聞こえ、法制化されるところまできていると聞く。

 実際日本でも高齢者施設でクラスターが発生ているというのに、入院させずにいて、多くの人が死んだと聞くが、行政は「病院がいっぱいで・・・」という言い訳をしているが、これは「介護の必要な高齢者の命よりも・・・」と後回しにされたんだろうなと推測できる。

 このように、障害者は余計にコロナからの感染から身を守らねばならない理由が障害のない人よりも増えるのだ。

 余裕のある日常でない時に「命の選別」が行われ、命の価値が順位付けされることは、社会の中に、非人間的な差別が蔓延している証だ。

 人間とは何か、差別とは何かをもっと人類は考え、差別のない、誰もが共生し合える社会を構築するために、人類は進化しなければならないと思う。