障害者性とでもいうべきモノだろうか

 今までに、自分も含めて色々な障害者や健全者に出会ってきた。
その中で最近思うのだが、健全者にあって障害者に無いもの、というか、障害者にあって健全者に無いものがある。これは言い方であって、同じモノを指すのだが。
 それを障害者性とでもしておく。
 何かと言えば、主体性の無さの度合だ。
 これは障害者性といったが、実際脳性マヒ者に多いのかもしれないが、全く人の言いなりに動く、自分の意見や考えを出さない、言い方を変えれば、全くの無責任、責任放棄であり、飼い慣らされているペットという感じ。ペットはまだ腹が減ったら食べ物を要求するが、全くの無要求といった感じ。
 もちろん、障害者全てがこうだと言っている訳ではないが、こういった障害者が多い。ちなみに健全者には見たことがない。
 では、なぜ、どこで身に付いた性質なのかと考える。
 子供の時からの育てられ方、収容施設や養護学校等の中で文句を言わさず、また文句を言う必要がないほどに過保護に、集団生活を否応なくさせられてきた結果、と考えずにはいられない。主体性を全く育てられない、あるいは奪われての生を、全くの受身の生を送ること自体、普通では考えられないが、そういう人たちを見ると、自分の中にも有るそういった性質を見出してしまう。
 障害者であることへの劣等感と同様、なかなかぬぐいきれない障害者としての負の部分であると自覚している。
 障害者解放の闘いは、もちろん障害者をはじき出して成り立っている健全者社会との闘いではあるのだが、そうした自分の中に培われた健全者からのシバリとの闘いという一面も忘れてはならないと思う。