「まちかどプロジェクト」

オレは電動車イスに乗って街中を普通に出歩いている。

するといろんな事が身の回りに起きてくる。

自動ドアでない店に入る時、店の中で品物を取ってもらう時、

だんだん時が経ち、馴染みになると、店員さんの対応も変わってくる。

お互いに親しみが出てくる。

そんな時、障害があるからこその楽しみだな~と思う。

これからもどんどんいろんな所に出向いて、開拓していきたい。

人々の意識を。

新型コロナウイルスとワクチンと「ウイルス」と「ワクチン」

人間は情報により自分というソフト面を形成している。

それは、場所により、環境により、時により、同じ時間でも違うのは当たり前だ。

その中でも「常識」というものを考えると、人は「常識」を正しいと思い込んでいる人が多い。

しかし、この「常識」の中に差別があることも事実だ。つまり「常識」は必ずしも「正しい」とは限らないということだ。

 

もしも「常識」が意図的に作られているとしたら、どうだろうか?

 

オレは「ウイルス」について、「ワクチン」について、少し詳しく学んでいきたい。

 

それを経て、新型コロナウイルスとは、新型コロナウイルスに効くと言われているワク

チンは本当に効くのか、危険なモノではないのか、自分の中で結論づけたいし、確信を

持ちたい。

ちょっと疲れた。

昨日もその前の日も寒かったぁ~。

それで、水曜日はそのまた前の日に大雪が降るという天気予報が出てたので、その日のうちに彦根行きをあきらめた。

が、次の日(水曜日)米原以北はよく降って積もったらしいが、事務所のある南彦根近辺はそうでもなかったようだった。

それで、その次の日(木曜日)は降るかなぁ?って思っていたら、朝の6時過ぎにパソコンでネットのライブカメラを見ると、彦根は積もってなかった。この日も南彦根近辺に出かける予定があったので、彦根行きを決意した。

8時半に家を出、8時53分の電車で南彦根駅に向かった。

 すると、気が付くと篠原に雪がうっすらと見え始め、八幡、安土と行くうちにダンダンと雪が濃くなり、白い世界に変わってきたのだ。雪も降っている。

9時半に南彦根駅に着いたが、辺りはすっかり白かった。

 行くところは事務所よりは少し近く、何とか行けると思い、西口のエレベーターを降りると、けっこう雪が降っていた。で、傘を開かねばと思っていたら、エレベーターを出たところが交番の横になっていて、そこに丁度パトカーをバックで入れていたお巡りさんと目が合い、「すみませ~ん!」と傘を開けてもらい、順調に行先までの道のりを座って行った。(車イスなので)まだ新雪状態だったので、何とかたどり着いた。

 10時から会議が始まり、12時少し前に終わったのだが、その間、深々と雪は降っていたので、駅までの帰りがちょっと大変かな?と思ったが、やっぱり大変で、足跡とかが少し凍り始めていたんだと思うが、ガタガタとゆっくりしか進まず、右に左にハンドルを調整しないと進まなくなるわ、どうしても進まなくなったらバックで少し下がるとか、体をゆっすって無理やりに進むとかしながら、雪の降る中を傘をさしながら駅までたどり着いた。今度はその雪が付いた傘を畳もうとエレベーターを通り越し、階段の下まで行って「すみませ~ん!」とそこに居た人に声をかけ、やってもらった。

 それで電車に乗って帰ってきたが、野洲まで来た時には雪は無く、日差しがまばゆいほどさしていて、別世界だとつくづく思った。

久々に子ども扱いされた

 まち中に出て、買い物とかをしていると、若い頃はよく子ども扱いされたが、この歳になってくると流石に子ども扱いはなくなってきた。見た目もおっさんになり、時代の流れでちょっとは変わってきたのかなあと思っていたのだが、この間、某○○ヤでヘルパーさんに付いてきて来てもらいDVDを機械操作で借りてから、Tカードの事で店員さんに聞いていると、一通り説明してもらって、また今度来ますと、店を出ようと思ったら、同じ説明を同行してくれているヘルパーさんにもし始めたのだ。まるで小さい子に説明し、保護者にも納得してもらおうと同じ説明をするように。

 また2日経って今度は某安売りのスーパーで、パンを買おうと、レジで対応してもらう時、店員さんはお客さんに対する丁寧な口調は使わず、子どもに話すようなタメ口調になり、最後に「ありがとうございました。」ではなく、「ありがとう」で終わった。ちなみにその店員さんは初めて会う人で、その店にも久しぶりに行ったので、親しい人ではなかったのだ。

 こうも立て続けに子ども扱いされると、世間の障害者観は、変わってないどころか、昔に逆行してるのではないかと思えてしまう。特別支援教育と名を変えて、これまで以上に細かく子どもたちを分けて来た教育の影響もあるのだろうか?

がんばってみよう ちょっとだけ

前回書いた記事が3ヶ月を過ぎていたので、もう少し多めに書こうと思った。

週に1回か10日に1回か半月に1回か、どうなることやら・・・

我ながらええ加減やと思うが、まぁいいか。

一応の決意表明をしておく。

自分とは?

 若い時に時々考えていたことだが、また最近考えるようになった。

 その理由を記す。

 障害者差別をはじめとする「非人間的差別」は常識の中にあるという事、つまり常識は必ずしも正しくない、変えなければならない常識もあるという事、この事は15歳頃から関わり始めた障害者解放運動の中で、先輩からも教えてもらったし、運動を闘ってきた経験からも実感としても分かってきた事なのだが。

 そのような中で、自分って何だろう?と考えた事がある。この身体を持って、「オレ」という存在の周りで、在る環境、在る常識の中で、「オレ」という己ができてきているのだと。鏡の中の自分は「自分の姿(見てくれ)」でありオレ自身ではない。オレ自身は見えないモノであり、オレ自身が感じているモノでしかないのだと。他の人にも感じてもらっているが。

 ここ最近、「インフルエンザのワクチンは効かない」という非常識な情報を聞き、「んん?」と思い、ホンマかいな?と思い、今まで効くと思い、他の人にも義務的に勧める立場だったので、調べようと思い、ネットで検索し、本も買って読んだ。

 その結果、オレは「インフルエンザワクチンは、効かないし、害がある恐いものだと納得した。このワクチンには、ウイルスを不活性化する(殺す)ために、発がん性物質であるホルマリンが使われていることや、腐らないように保存するために、体の中に蓄積していく水銀が使われている事などが書かれていたし、決してフェイクではないと確信できたのだ。

 日本人は特に「みんながやっているから自分もやる」と自分の判断は「周りの人」と、常識に流されている人が多いと思う。

 だから、今一度、自分とは?と若い頃考えていたことを思い出したのだ。

 ちなみにオレが読んだ本は、母里啓子(もりひろこ)著「インフルエンザ・ワクチンは打たないで!」・船瀬俊介 著「ワクチンの罠」等である。

 改めて、自分の事は人任せにしないで、自身で考えて納得して行動しようと思った。

 

命の選別

コロナ禍が一段落しているが、4月中頃から5月中、電車に乗っての通勤や通院はやむを得ず形上「自粛」した。

 この「自粛」に至った経緯はここでは省略するが、電車に乗っていようといまいと、どこでどうコロナウイルスに感染するか分からないが、なるべく感染へのリスクを避けるという意味では、不特定多数の人との距離を置くとか、自分なりに自分を納得させた。

 駅前の銀行に行く時も、いつもなら駅のエレベーターを使い駅舎内を通って駅の向こう側に出るところを、駅舎を通るのを避け、少しだけ回り道して人通りの少ない線路をくぐる道を選び、できるだけ人とすれちがわないようにした。

 もうあれから3ヶ月も経っているので、想いの移り変わりはあったのだが、以下、障害者としてのオレの思いを書いていく。

 世界的に感染者が増え続けているピーク時、ヨーロッパ諸国やアメリカ等は多くの人が感染し多くの人が重篤化し死んでいる。医療現場では重篤化した人の治療に使う人工呼吸器が不足しているという事態が起こっていた。そのような切迫した緊急事態の中、障害者が感染し重篤化した場合は、人工呼吸器を着けるのは後回しにすべきだと、つまりは健全者の命を優先して救うべきだとする声が聞こえ、法制化されるところまできていると聞く。

 実際日本でも高齢者施設でクラスターが発生ているというのに、入院させずにいて、多くの人が死んだと聞くが、行政は「病院がいっぱいで・・・」という言い訳をしているが、これは「介護の必要な高齢者の命よりも・・・」と後回しにされたんだろうなと推測できる。

 このように、障害者は余計にコロナからの感染から身を守らねばならない理由が障害のない人よりも増えるのだ。

 余裕のある日常でない時に「命の選別」が行われ、命の価値が順位付けされることは、社会の中に、非人間的な差別が蔓延している証だ。

 人間とは何か、差別とは何かをもっと人類は考え、差別のない、誰もが共生し合える社会を構築するために、人類は進化しなければならないと思う。