車いす障害者の通勤について

 オレはいつもJRで瀬田駅から南彦根駅まで電車に乗って通勤している。

 この前、ある人が琵琶湖線から草津線に乗り換えて通勤したいとうことで、駅員に聞きに行くと、乗り換え時間が5分しかないので、走っている人もいやるので車いすでは危険だから、この乗り換えはできないと言われた。

 やっぱり無理かと思ったが、5分の乗り換え時間を設定していること自体が危険なのではないかと考え、公共交通機関として誰にとっても安全で余裕のあるダイヤで運行することが大切ではないかとJRに意見を出した。

 すると、丁寧な回答が返ってきた。

 が、しかしその中に「東海道線草津線の標準乗換時間の目安」を説明する文章があった。それによると、大きな荷物を持った客でも、『通常歩いて乗り換えができる』時間」だそうだ。つまり車いすに乗った歩けない客は想定されていないということになる。

初めに書いたようにオレは乗り換えなしの電車1本での通勤をしている。しかし、車いすに乗って通勤しているのだ。同じく車いすに乗って通勤しようとしている人がいるのに、乗り換え時間が短いからできないというのは、やはり同じ客としてJRを利用している者として納得がいかない。

 ちなみに草津線はほぼ1時間に1本のペースでしか運行しておらず、朝の7時半の少し前の乗り換えがその乗り換えなので、その人は6時50分頃の電車に最寄り駅から乗ることになるのだ。草津駅の駅員が「もう1本早い電車なら乗れる」と言っていたが、それだと6時半を少し回った頃の時間の電車に乗らなければならず、障害者にとっては、朝早く起きて支度をして駅まで出て行くことは当然、障害のない人よりも時間がかかる事なのだ。

 障害者差別解消法ができてもうすぐ3年目を迎えようとしているのに、車いすに乗った客は特別で、「乗り換えができなくて当たり前」的な態度には、差別感を覚える。

 JRには、この「標準乗換時間の目安」を歩ける客に合わせるのではなく、誰もが安全で、快適に利用できるように、見直してもらいたいと、またもや意見・要望としてホームページのメールで送っておいた。いろいろとJR側にもご都合があるだろうから、すぐにという無茶は言わないが、できるだけ早い対応をお願いしたいと思う。 

命について

 最近、命について、ある考えがまとまった。
 それは、命は個人個人のものではなく、社会全体のものであるということだ。
 人間は生まれてから歳を重ね、死ぬまでの間に、誰の助けもなく一人だけの力で一生を終える人はいない。
 人間は、生まれた時は誰もが寝たきりで、周りの人たちに育てられ、成長していく。
 また人間は一人では生きていけないから、集団を作って生きている。それが社会だ。
 その社会の中で人間は、またいろんな集団を作り、いろんな役割分担をしながら生きている。職業や役職や立場がそれに当たる。
 そう考えてみると、人間は一人では生きていけない弱い存在だということが明らかにわかるだろう。ここには障害のあるなしは一切関係がない。つまりは、人間は社会の中で生きている以上、お互いに支え合いながら、助け合いながら生きているということになる。
2年前の7月26日に相模原市で起こされたやまゆり園での殺傷事件についてのN氏の論文の中に「命は誰のものか」という問いかけがあったのだが、それをを読み、この気付きのきっかけになったのだが、他にもこの考えに至った理由がある。それはヘルパーさんに介助してもらっている時に、介助をしてもらいやすいように、身体を動かしたりとか向きを変えたりとか自分のできる範囲でやるのだが、その時にヘルパーさんが「ありがとうございます」とお礼を言われることが多々あるのだ。してもらっているのはこっちのほうなのにだ。
 そうすると、命とは、人と人が生きる営みをの中に有り、人と人とのつながりの中にあるのではないかと思う。

待つ・待たせる ということ

 スーパーやコンビニでお金を支払う時や銀行のATMでお金を扱う時は、人が多い時は、順番に並んで待つしかない。

 もう、大分前になるが、ふと気付いた瞬間があった。

 スーパーのレジにたくさんの人が並んでいて、オレはできるだけ待たずに早く順番が来るように、人の並びが少ないレジを選ぼうとしていた。
 その刹那、「あれ?なんでオレは急いでるんかなぁ?」「なんで待つのがイヤなんやろ〜か?」ってフと頭の中に浮かんだのだ!

 そして、「レジで待つのは当たり前やんか!」「待ってもええやんか!」って思いが次の刹那に浮かんだのだった。

 前述のことが起きてから、オレは並ぶのが苦で無くなった。
 さすがに急いでいる時は別だが。

と、ここまでは待つほうの側からのモノだったが、今度は待たせる側からの視点で書きたい。

  並んで待ってやっと自分の番が来て、レジで支払いを済ませる時や、ATMで現金を出し入れする時は、一機に待つほうから待たせるほうに立場が逆転する。
  特にオレら障害者は財布の出し入れとか現金の出し入れに、レジの人や銀行の人に手伝ってもらうにしても障害のない者と比べると時間がかかる。だから、待つのが当たり前やって気付くまでは、すごく気を遣って支払いや現金の出し入れが済むと、財布を片付けるのは後にし、その列の先頭をできるだけ早く離れ、それからゆっくりと財布をカバンに戻す作業をしていたものだった。ヘルパーさんと一緒にいる時もやはり同じようにできるだけ列の先頭を離れることを優先し、後で、ヘルパーさんに財布をカバンの中に戻してもらうようにしていた。

 けど、待つのが当たり前と思うようになってからは、それほど後に並んでいる人達に気を遣わなくなった。

 まあ、とは言ってもヘルパーさんが一緒の時は順番が来る前に財布をカバンから出してもらったりという当たり前の気の遣いかたはしているが。
 けど、オレらが後の人に気を遣うのは、できるだけ人の迷惑にならないように、という障害のない人への気遣いなのだが、ヘルパーさんが「後の人が待ってはるから財布の片付けは後にして、早うこっちに」と誘導するのは、こっちからは「如何にも迷惑な人がここにいる」と言うているようで、不快に感じるのだ。
 待つのも待たせるのもお互い様という、もっと時間に余裕を持った社会にしないと、障害者はノビノビと生きられないなあ〜と思う。
 障害があろうがなかろうが、皆、人は迷惑をかけ合いながら生きているのだという自覚を持ってもらいたい。

仲間が亡くなった!

 滋賀青い芝を一緒に築き上げ、30年程一緒に活動してきた仲間が2月13日の夕方にあの世へと帰って入った。
 まだ3日しか経っていないが、時が経つにつれ、寂しさが増して来る。
 昨日の葬儀の時に、その前日に通夜の帰り際に弔辞を読んでくれないかとそのお連れ合い(喪主でもある)から頼まれ、何を言葉にするかと、その仲間との思い出を振り返り、ボヤッとながら、ああいうことも言おうこういうことも言おうと一応考え、前へと促され、マイクを握り、弔辞を語った。
 前に出た時、紙を置く台が用意されていたので、「弔辞を読む」という言葉を思い出し、書いて来るものなのか?と少し思ったが、マイクを握り亡くなった仲間の遺影に語りかけようと思い、喋りはじめた。
 すると、涙が出てきて、声を出して泣きそうになり、我慢するのに少しの間詰まってしまった。
 その後、ホンマの実感としての「心の中の柱が1本折れたような感覚だ」と言葉が出た。
 亡くなったのは、仲間といっても13歳上の先輩で結成当初から滋賀青い芝の会長を務めてきた人だ。
 ホンマに長い間お疲れ様でしたと言い、ゆっくり休んでくださいと言葉を結んだように思う。
 お棺に花を入れる時、ほっぺたに触れた。ホンマに冷たかった!
 今、「柱が折れた」どころか、穴が空いて、大きくなってきているような感じだ!
 後を頼むという声なき声が聞こえるように思う。

2018年も もう19日過ぎた!

 歳を重ねるとともに時の過ぎ行くのが速く感じられる。
 その速さは年々猛烈な勢いで加速していく。
 不思議なもんだ!
 これから先、60、70とどれくらいまで生きられるか分からないが、あっという間に人生が終わっていくんだろうなぁ〜と思う。
 自分が死んだ後は、その短い足跡が少しは残るが、時と共に薄らぎ、消えていくのは、誰でも皆同じかな?余程の偉人でないかぎり。
 時々思うのだが、時を川の水の流れのように考えると、川に流れない重さの石がオレで、勝手に川の水が流れているだけで、オレはただ何も変わらずここに居るだけと。けど、見てくれはドンドン老けていき、肉体的にもドンドン衰えていっているのだが。
 この今を生かしてくれている時に報いるためにも、己の命を使い、この今を、未来を少しでも良くしていきたいと思う。オレのできる範囲で。

きのう、投票に行ったが、

 ウチの地域の投票所は、近くの幼稚園なのだ。
 入口に何段か段差があるため、その横のスロープ状になっている所から入るのだが、そこは「出口」と書かれた看板があり、文字通り投票所の出口とされている所なのだ。
そしてそこには出口調査とおぼしき連中が2・3人立っていて、出て来た人に何か質問をし、それを記録しているようなのだ。丁度スロープのさ中に。
 たしか「誰に入れましたか?」とか聞いていたような記憶があるが・・・
 それで、オレも連れ合いと一緒に雨の中その「出口」から入り、またその同じ「出口」から出て質問をを受けやすいようにゆっくりとスロープを下って聞かれたら答えようと心構えをしていたが、なんと、あっさりとスルーされた。続いて後ろから2台目の車イスに乗った連れ合いが同じく通過したが、これまた同じくスルーだった。
 確か前の投票の時も同じくスルーされた記憶がある。
 障害者だから聞かないのか、何故なのか分からないが、今度機会があれば、こっちから話かけてみようかと思う。「何されてるんですか?」とかしらじらしく。^^v

障害のない人の定義

 3年ほど前に「障害者差別のない大津をめざして」というシンポジウムで、京都から呼んだYさんが冗談半分で「健全者の定義はどんなんだ?」というような事を言ってられ、なるほどなぁ〜と皆と言い合っていたが、最近になって真剣に考えてもらいたいなぁと思うようになった。なぜ「考えたい」ではなく、「考えてもらいたい」というのかというと、障害者の立場から考えるのではなく、障害のない人(健全者)の立場にあると思っている人の立場から「なぜ障害がないと思っているのか?」「その特徴とは何なのか?」ということを考えてもらいたいからだ。
 「人間の定義」ではなく、「障害のない人の定義」だ。