父の死について思うこと

2010.7.14

10日になった夜中、父の死を知らせる電話が入った。

2年前の正月に倒れ、危なかったのだが、何とか医療に救われ、寝たきりになっていたのだが、死は突然だった。

覚悟はしていたが、いざ現実に死がやってくると、思った以上に悲しく辛く、涙が流れた。

この悲しみ辛さの中には様々な思いが入り交じっている。

その一つに、自分が障害者であることに起因するモノが、多々ある。

その、まだ混沌とした、自分の思いを言葉という形で、この場で、現しておきたいと思う。

オレとオヤジの関係は、あまり親密とは言えず、どちらかというと、その逆で、あまり言葉を交わしたことがないほどのものだった。

それは、オヤジの性格もあったと思うが、短気ですぐに怒ってばかしいて、オレが歩けないのもあり、家の中で男兄弟3人がギャーギャーバタバタと遊んでいると、
いつも仕事から帰ってきては「うるさい!」「外で遊べ!」と怒鳴られたりしていたので、オヤジが帰ってくると兄弟3人が「シーーーン」としてしまうくらい、怖い人だったのだ。

まあ、昔のオヤジというモノは「地震・雷・・・・」というくらいで、皆怖いモンだったと思うが。

葬式の時に、オヤジが自分の葬式の時に読むように書き残したものを、司会者の方に読んでもらって思い出したのだが、オヤジからまだ幼い頃、思い切り両方のほっぺたをかなり長い時間(に思えた)つねられたのだ。その痛さは今でも蘇るほど鮮明に覚えているが、その痛さのあまりギャーギャーと大声で泣いていた記憶があるのだが、何をしてあんなに怒られたかは全く覚えていない。(こどもを怒る時は気を付けたほうが良い。)だから、オヤジに恐怖を感じたきっかけはこの出来事だったんだろうと想像できる。

が、オヤジの書き残した文面には、「当時飼っていた金魚の鉢をどうもひっくり返したのか、金魚を早く戻さなかったので、早く戻せとオヤジがすくって鉢の中に戻して、死んでしまうやないかと、怒ったらしいことが書かれていた。これが最初で最後に子供に手をあげたことだと。

そういえば、あれからオヤジからたたかれたこともつねられたこともなかった。が、それは、オレがオヤジを怖がり、寄せ付けなくなり、お互いに遠い関係になっていったからだと思っていたのだ。

オレが家にいる時はオレの介助は一切せず、オレもやってもらう気もなかったが、そんな関係だった。

養護学校の寄宿舎に入っていた頃の土日の帰省の時の送り迎えだけは運転免許を持っていたオヤジの役割でしてくれていた。唯一目の見えるところで直接やってもらっていたことだ。オヤジは運転の間、気分良く自分の好きな歌を口ずさみながらの40分間だった。
オヤジの優しさも唯一感じたのは、寄宿舎の布団の下にマットをオレのために敷きたがって、買って寄宿舎に持って行ったら、寮母さんから体のために良くないという理由で許可してもらえなかったということを母から聞いて知った8歳か9歳の頃だった。

しかし、父はオレには差別的だったと思う。
まずは、3歳か4歳の頃はやった「脳性マヒが治る(かも?)」という触れ込みの頭の手術をオレに受けさせたという事実。障害を治すためなら命がなくなるかもしれない危険な手術だったと思う。事実、母はオレが手術室から出てきた時に、真っ青になった舌を出していたので、もう死んだかと思ったと言っていた。

これについては、以前まだオレが若かった頃、(17・8か)オヤジに初めてモノを言ったと思うが、オレの思いをぶつけた事があった。その時は「親心が分からんのか」と言われ、それ以上つっこめなかったと思う。

それから、一番オヤジに対して恨みを持ったことでもあるが、オヤジは一番風呂しか入らない人で、遅く帰る時でもオレら子供も母も待ってるか入らず寝るかどちらかだったが、どうしても入りたかった時だと思うが、母が「もうええから入り」と一番風呂に入ったことがあった。弟も時折入っていたと思うが、仕方なくオヤジはその風呂に入っていたと思うのだが、オレが入った後の湯は「入れ直せ」と母に言っていた事を布団の中から聞いていた。満身怒りで燃え、寝付けなかったことを覚えている。

そんなオヤジも年を取り弱っていく中で(パーキンソンの症状も出てきだして)、たまに実家に帰り兄弟と一緒に酒を飲む中で、少しずつではあるが、ポツポツとは話が出来るようにはなってきた。

そして2年前に倒れることになったが、それまでにも出来ないことは多くなってきていて、転けて唇を打ち、腫れていた時にたまたま実家に顔を出したことがあり、オヤジの顔を見て「唇どうしたん?」と聞くと、「バチがあたったんや」と言っていた。どういう意味で言ったのかよく分からないが、もしも障害が出てきた事も含めて「バチがあたった」と言うてたとしたら、それは障害者差別につながるなあと思っていたが、弱ってきたオヤジに食いつくようなことはできなかった。

そして、弟から聞いたことなのだが、どこかへ弟を連れて行った時のこと、オレという息子が居ることを言わずに(オレの存在を消し)家族の紹介をしたという。

だから、あのオヤジが書いた文章の中にオレが生まれたと書いてあったことだけでも、胸がつまり涙が流れ出てくるのだが。

それから、家が寺ということで、本来なら一番上の兄であるオレが坊主を継ぐはずになっていたと思うが、双子で障害の軽い弟にその役割は担わされたが、朝食前にオヤジと一緒に子どもが本堂へ行って正信偈を詠むことが日課だったが、それにもオレは呼んでもらったことは一度もなかった。しかし、それを不憫に思ったのかオヤジか母が誰かは覚えていないが、正信偈の書いた本を渡してくれて時折詠んで、弟達がここまで覚えた(暗誦できた)という会話を聞きながら悔しく思い、何とか出だしの4・5行だけだが、暗誦できるようになった。

そして「トクドウ」といって坊主になる第一歩の儀式があるのだが、それにも10歳ごろオレを残し弟2人を連れて行った。これには坊主の世界の障害者差別性が世間同様あるとは思うが。

いろいろ書き連ねてきたが、オレが何でオヤジの死に対して涙するのかということだが、オレが生まれ、障害者となった時はうまれたてで、その時点で予想外の子どもとして親の前に出現するわけで、それは、親の期待を既に裏切っているということである。この時点で、親の立場からすれば、オレは加害者なのである。プライドが高く大学院へ行き博士課程を終了し、高校の教師という職に付き結婚したオヤジにしてみれば余計にそうだったのだと思う。

しかし、だからこそオレはオヤジに反発してきたし、世間の差別と闘ってきたと思う。

反面教師としてのオヤジを意識してきたのだと思う。

もっとオレと打ち解けて話したかったんだろうか・・・

大学に行きたいというオレに反対もせず、黙って認めてくれ、その大学を中退する羽目になった時も黙っていたオヤジ。

オレのした親孝行といえば、孫の顔を見せられたことぐらいかと思うと、また涙が・・・・。

この涙は、オレという存在を否定することにもつながりかねないし、しかし障害者としての存在は誇っていくべきものであり、オヤジの息子としても、・・・

オヤジからすれば恥ずかしい息子、どうしようもない息子だったのかもしれないが、・・・・

以上。