差別と向き合うということは
若い頃から障害者解放運動に頭を突っ込んでいるオレだが、もう49才になった。
で、やっぱりオジン臭く、最近の若いモンは と言いたくなるのである。
そんなオレが若い頃から(12・3才の頃)差別と向き合い、分からんなりに考え、行動してきたが、それは、オレは障害者だから、障害者の立場で、社会の構造を見抜くということをしてきたと思う。「健全者社会は障害者を排除することで成り立っている」とか。
けど、その社会とはまったく関わり無く、自らが存在していた訳ではなく、その社会の構成員たる父とか母とか他の大人たちに育てられてきた自分がしっかりといるのだ。
それは、健全者社会の持つ差別的な価値観を嫌がオウにも染み付いているということだが。
そのことを自覚し、己の内面とも向き合うことを忘れてはならないし、差別と闘うということは、当然のこととして社会という外へ向けての闘いと、己という内に向けての闘いが並行的なものだと思う。
けどこれは、自分が社会的に障害者としてどういう立場に立たされているのか、どういう位置付けをされているのかということを分かっていなければできないし、分かるには社会的接点がなければならないと思う。
で、今の若いモンはという話になるのだが。
そういった社会的な自分が置かれている位置が分かっているのだろうか?社会的接点がほとんど無く、あるいは一人前の人間として育てられなくて社会を観られなくなっているのか、全く分かってないモンが多い。
これも差別の現状だと思うが、差別のさの字も分かっていない若い障害者が多いのにはあきれ返る。
それだけ差別の現状が複雑になってきているのか、寝た子を起こすな主義が根底に強まっているのか、今一度、考えたい。