障害者の生きる社会的意義

 「社会には障害者はいない方がいい。」というのが現時点の社会の中の常識のように思う。このことから、障害者が生まれるのを嫌う健全者がいるし、「障害は治すべきものだ」と否定すること、これらが社会正義となっている。
 ここには、当然優生思想もある。つまり、「障害者は劣った存在で、社会の足手まといとなるから」という理由で、存在を否定することである。また、「子どもを育てる手間がかかるから」という親の都合から障害のある子どもを否定する理屈もあると思う。
 そんなこんなで障害者差別は根強く続いてきたのだと思う。
 だから、ここで、障害者が生きている社会的意義、必要性を主張しない限り、「障害者は社会には要らない」とする正義の理屈は覆らないと思うのである。
 では、それは何なのか。
 簡単なことだ。
 障害者がいない社会を想像すれば己ずと答えは出てくるのだ。実際、ナチスの行ったように障害者を全て殺さない限り、このような社会は訪れないが。(今の日本の隔離政策に近いものは感じるが)
 社会の中で生きる人間の条件を規定してしまい、人間の多様性を認めない社会がそこにはあると思う。出生前の遺伝子診断の徹底や障害をもって生まれて来たら即殺す、或いは胎児のうちに(これは現在行われているが)。また病気や怪我で障害が残るような状態になれば、「死んでもらいます。」と、(これは安楽死尊厳死を匂わしているが。)また、臓器移植なんかも盛んになるかもしれない。そんなコワイ社会になってしまう。
 だからこそ、いろいろな人間の状態を認め、どんな状態の人も認め、包み込む社会を目指さねばならないし、障害者の存在意義はそこにこそあるのだ。