改めて「障害者差別」とは

 最近いろんな所に出かけ、あるいは日常に身を置く中で、周りで起こったこと起きたことで、改めて「障害者差別」について考え、頭の中を整理してみたいと思った。
 まずは“みてくれ”。
 「人間」のカタチが多数のものと違うこと。この違いを在ってはならないと位置づけること。
 これは「人間」の個々はそれぞれに違うはずなのだが、同じモノとしてみることで仲間意識を持ちたがるのだろう。いや、より簡単に仲間意識を作れるのだろう。これは障害者差別につながる身体的差異だけではなく、好みや考え方や習慣といった様々なことがいえるが、多数の同質性を正とし、小数の異質性を悪として定義することによる「人間」としての社会心理なのだろうか?この中で優劣がつくられ、差別が生まれる。小数の差異者は劣等感を持たざるを得なくなり、差異に悩み苦しむ。この場合、3人居れば差別は成り立つ。

 次に「力」。あるいは能力。
 「力」の強いモノが上に立ち、弱いモノを支配し、極端に弱いモノを切り捨てる。生きている価値がないと抹殺する。
 弱いものは怖くて強いモノに対してモノが言えない。たとえ言っても打ち消されるか無視される。あるいは嘲笑され、罵倒される。きわめて原始的な「力」の論理だ。原始的だと分かっているのにこの論理から離れられない「人間」社会がある。「力」の弱いモノも「力」の強いモノになびいてしまい、強いモノの動向や言動を常識として無意識的に受け入れてしまうか、傍観者を気取ることになる。弱いものは強いモノから足手まといだと言われ、生きている価値がないと思い込まされ、悩み苦しむ。この場合も3人居ればこの「力」の関係は成り立つのだ。

 少し長くなったが、「障害者差別」と優性思想の根の根の部分なのかなと思う。