最近リアルな夢を見た。

 どこの街かは知らないが、初めての地で、飲み屋に一人で入ったところ、他の客(オッチャン)も何人かいたような。確か常連客だったと思うが。そこでカウンターの中でオバチャンが一人店をやっていたと思う。
 で、車イスで入っていき、カウンター席しかいけなかったから、そこに場を取り、何を注文しようかと考えていると、そのオバチャンと常連客のオッチャンが「こいつどこから来よったんや」みたいなこと(オレのこと)をしゃべり始めていて、いきなりオバチャンが後(車イスの背)に掛けていたカバンをオレに何の断りもなく無断で開けてきたのだ。(実際にはこんなこと経験したことはないが)
 オレはオバチャンがカバンの中をゴソゴソやっているのをほんの少しの間見ていたが(イカリを爆発させる充填時間だったのかも)。
 あとは実際でもよくあったが、大声でイカリを表して、「客をなんやとおもてんねん!!! ・・・・!!! ・・・・!!!」と叫んでオバチャンがオロオロしているところで目が覚めたと思う。
 最近はあまりこういったモロに差別的な対応はされないので、なかなかないのだが。
 この夢を見て気が付いたことがある。これを普段外に出ない若い障害者がやられたらどうだろうと。
 このようなきつい出来事ではないが、例えば電車に乗る時の車両指定(大概黙っていると一番後ろの後ろドアの位置に誘導される)とか、いたるところでやられる「障害者は後回し」といった対応とか、そういったちょっとしたことでもそれを問題視しないで当たり前だと思うのではないだろうか?
 オレが養護学校に一年遅く入学し、地域の小学校に入学できなかったことを当たり前だとその当時は思っていたように。

 そんなことを考えるきっかけになった。

改めて「障害者差別」とは

 最近いろんな所に出かけ、あるいは日常に身を置く中で、周りで起こったこと起きたことで、改めて「障害者差別」について考え、頭の中を整理してみたいと思った。
 まずは“みてくれ”。
 「人間」のカタチが多数のものと違うこと。この違いを在ってはならないと位置づけること。
 これは「人間」の個々はそれぞれに違うはずなのだが、同じモノとしてみることで仲間意識を持ちたがるのだろう。いや、より簡単に仲間意識を作れるのだろう。これは障害者差別につながる身体的差異だけではなく、好みや考え方や習慣といった様々なことがいえるが、多数の同質性を正とし、小数の異質性を悪として定義することによる「人間」としての社会心理なのだろうか?この中で優劣がつくられ、差別が生まれる。小数の差異者は劣等感を持たざるを得なくなり、差異に悩み苦しむ。この場合、3人居れば差別は成り立つ。

 次に「力」。あるいは能力。
 「力」の強いモノが上に立ち、弱いモノを支配し、極端に弱いモノを切り捨てる。生きている価値がないと抹殺する。
 弱いものは怖くて強いモノに対してモノが言えない。たとえ言っても打ち消されるか無視される。あるいは嘲笑され、罵倒される。きわめて原始的な「力」の論理だ。原始的だと分かっているのにこの論理から離れられない「人間」社会がある。「力」の弱いモノも「力」の強いモノになびいてしまい、強いモノの動向や言動を常識として無意識的に受け入れてしまうか、傍観者を気取ることになる。弱いものは強いモノから足手まといだと言われ、生きている価値がないと思い込まされ、悩み苦しむ。この場合も3人居ればこの「力」の関係は成り立つのだ。

 少し長くなったが、「障害者差別」と優性思想の根の根の部分なのかなと思う。

障害者だからこそできる社会変革

力のある者が勝ち、社会を支配し、権力を奪い取り、

力のある者の理屈を「社会的正義」としてきたこと、

これを繰り返し、くり返し行ってきた「健全者文明」。

その社会は強者優先の社会構造があり、常に弱者が作られ、

後回しや排除の対象とされてきた。

能力主義、障害者差別、etc

この「健全者社会」を変えられるのは、障害者の立場に立つ人類しかないだろ

う。 つづく

「目的」について

 最近、目的を持って何かをすることで、その達成した満足感が、その世界の喜びに繋がるというようなモノの考え方が流行ってきているのではないかと感じてきた。

 そもそも生まれるときには目的を持って生まれてくる人はいない。もしも目的を持って生きている人がいるなら、それはその人が途中で見つけたものであると思う。
 オレもせっかく障害者として生まれたのだから、この健全者の作ってきた社会を、健全者だけしか生きられないような社会の構造を、障害者を人間として見てこなかった社会を、誰もが人間として当たり前に生きられる社会に変えていこうと思っているし、それがオレの生きる目的であると思う。

 けど、しかし、これはオレが勝手に見つけた生き方であり、目標であり、誰からも強制された訳でもないのだ。

 道ばたに花が咲いているように、ただ咲いているように、ただ生きているだけの人もいると思うし、それもいいと思う。

 今の障害福祉サービスの中でも目標設定が嫌でも設けられていることに違和感があった。ただ生活するだけなのに、そこに目標を設定させられるということ、そこに健全者社会のモロさをみることができたように思う。

 ただ生きているだけでは価値が無いとか、人の役にたたなければ生きていてはいけないとか、生きる条件のように「目的」が考えられているように感じている。

 「流行り」には気を付けたいと思う。

もう4月も半ば

前のアップから3ヶ月経ってしまった。

いろいろあった。

最近は桜が咲いて1週間ほど咲いていたが、今はほとんど散っている。

この間、湖北の「だんない」の3周年だったかの集まりに行ってきた。
テーマが「共生教育(共育の間違いではない)へのみちすじ」だったかな?

1部の講演も2部のシンポジュームも、何か明確に、今の社会が持つ別学体制の問題点が語られていなかったように思った。
特に2部は湖北自立支援協議会の活動報告のように感じられた。

特別支援教育になり、ますます分離教育が推進されてきていることは話題に上らなかった。

「障害児教育」という言葉が在る事自体が問題だと思う。「教育」という言葉の中に障害児は含まれていないのだ。

養護学校が子供の数が増え、溢れかえっていて、普通学校・普通学級は子供の数は減ってきている。人口の減少でただでさえ減ってきているはずなのだが、この状況ではそれ以上に急激に減っているということになる。

一度、県内だけでもいいんで、小中学校の普通学級にいる子どもの人数と、特別支援学級養護学校にいる子どもの人数を比較してもらいたいものだと思う。何対何が普通の規準かは知らんが、面白いデータが出るかもしれない。

 今の普通が本当に「普通」なのか、「普通」って何なのか、障害者がいては「普通」とは言わない今の学校制度の差別性をもっと変えていかねば、社会は変わらないだろう。

また、「自己決定」という言葉が盛んに使われていたが、障害のない人たちは本当に「自己決定」をしているのか。

日本に生まれた私達が日本語を使っていることをどう捉えるのか。いつの間にか、知らず知らずの内に選択させられてきたと言っても良いと思うし、このような事は障害のあるなしに関わらず幾つも幾つも数限りなくあると思う。

取り立てて障害者に自己決定を強要するような事がもしあれば、これもまた問題になってくると思うが、要は障害者も健全者と同じ当たり前の感覚で、主体性のある人間として生きられたら良いと思うのだが。
久しぶりに書くということをしたので、今のオレの考えで書き留めて置きたい事を書いてみた。

新年になって

息子がこの間(13日)成人式に行った。

去年の誕生日に二十歳になったのだが。

それが特別どうという事はないが、オレは成人式から帰った息子を見てものすごううれしくなった。

なぜかというと、帰った息子の機嫌がすごく良かったからだ。
正確に言うと、成人式の後のパーティーから帰ってのことだが。

何があったのかは知らんが、妙にニコニコしていたその顔が印象的だった。

ただそれだけなのだが・・・!

酒飲みのオヤジを見ながら育った息子は、アルコール系はどの程度飲むのか何を飲むのか、また好きか嫌いかよく分からんが、まだ飲む時には付き合ってくれてない。

けど、サシで飲むのも話題がないかとも思う。

今はそんな事より、学校を卒業して自立してもらう事のほうを望む。

どんな人生をこれから歩むのか、せいぜい楽しんでくれ!な!

働け(か)ない障害者の、社会人としての地域での生き方

最近考える様になった事だが。

働ける環境さえあれば働ける障害者は、それによって生計を立て、社会人としての生活が送っていけると思うが、それ以外の障害者にとっての社会人としての生活とはどこにあるのか?ということ。

そこには「働くとは何か」とか、「生活とは何か」とかいった幅広い問題をたて、考えなければならないと思うが。

以前青い芝の会が「着替えの時など、ケツをあげるだけでもその障害者にとっては労働だ」と主張したことがある。

確かに「生きるための行為」として労働をとらえるならその通りだと思う。また「人に役立つ事」というとらえ方でも「介助者が少しでもやりやすいように」と言う事で、これもその通りである。

つまりこれは「生きる事が仕事だ」という事になるのだが。

在宅で普通に地域で生きていく中で、社会との接点はいわゆる「労働」以外に生活の中にはなくもない。買い物に行く事、遊びに出かける事、電車に乗る事、その他諸々…。

働くという事を「より速く、より多く、より正確に、より美しく」という見方をすれば、それができない或いはできにくい障害者にとっては、障害はマイナスとしかとらえられないだろう!

もう一つは「芸術としての出来」として働く事を見るならば、その人ならではの作風とかはあり、その障害だからこそできるものもあると思う。

しかしこれは一部の障害者であり、その他の障害者が全て芸術家として生きられる訳ではないだろう。

何が言いたいかというと、働けない障害者は生活に最低必要な「食う・寝る・出す・息をする・そしてそれに伴う行為(買い出し等)」の行為以外に「どこで・何を・どのように」して過ごす事が社会人として生きる事なのかということなのである。

障害を活かす生のあり方は何なのか、きちっとした言葉で語っていきたいし、周りとつながるという事を障害者も共に在りたいし、そういった社会の有り様を考えていきたい。