2018年も もう19日過ぎた!

 歳を重ねるとともに時の過ぎ行くのが速く感じられる。
 その速さは年々猛烈な勢いで加速していく。
 不思議なもんだ!
 これから先、60、70とどれくらいまで生きられるか分からないが、あっという間に人生が終わっていくんだろうなぁ〜と思う。
 自分が死んだ後は、その短い足跡が少しは残るが、時と共に薄らぎ、消えていくのは、誰でも皆同じかな?余程の偉人でないかぎり。
 時々思うのだが、時を川の水の流れのように考えると、川に流れない重さの石がオレで、勝手に川の水が流れているだけで、オレはただ何も変わらずここに居るだけと。けど、見てくれはドンドン老けていき、肉体的にもドンドン衰えていっているのだが。
 この今を生かしてくれている時に報いるためにも、己の命を使い、この今を、未来を少しでも良くしていきたいと思う。オレのできる範囲で。

きのう、投票に行ったが、

 ウチの地域の投票所は、近くの幼稚園なのだ。
 入口に何段か段差があるため、その横のスロープ状になっている所から入るのだが、そこは「出口」と書かれた看板があり、文字通り投票所の出口とされている所なのだ。
そしてそこには出口調査とおぼしき連中が2・3人立っていて、出て来た人に何か質問をし、それを記録しているようなのだ。丁度スロープのさ中に。
 たしか「誰に入れましたか?」とか聞いていたような記憶があるが・・・
 それで、オレも連れ合いと一緒に雨の中その「出口」から入り、またその同じ「出口」から出て質問をを受けやすいようにゆっくりとスロープを下って聞かれたら答えようと心構えをしていたが、なんと、あっさりとスルーされた。続いて後ろから2台目の車イスに乗った連れ合いが同じく通過したが、これまた同じくスルーだった。
 確か前の投票の時も同じくスルーされた記憶がある。
 障害者だから聞かないのか、何故なのか分からないが、今度機会があれば、こっちから話かけてみようかと思う。「何されてるんですか?」とかしらじらしく。^^v

障害のない人の定義

 3年ほど前に「障害者差別のない大津をめざして」というシンポジウムで、京都から呼んだYさんが冗談半分で「健全者の定義はどんなんだ?」というような事を言ってられ、なるほどなぁ〜と皆と言い合っていたが、最近になって真剣に考えてもらいたいなぁと思うようになった。なぜ「考えたい」ではなく、「考えてもらいたい」というのかというと、障害者の立場から考えるのではなく、障害のない人(健全者)の立場にあると思っている人の立場から「なぜ障害がないと思っているのか?」「その特徴とは何なのか?」ということを考えてもらいたいからだ。
 「人間の定義」ではなく、「障害のない人の定義」だ。

一歩の積み重ねが

前に一歩また一歩と、歩いている人の後ろ姿を見ながら電くるに乗って道を行くんですが、電くるの方が速くて追い抜かす人もいるけど、オレが止まったら、先を歩いている人はドンドン・ドンドンオレから離れてだんだん遠くへ行ってしまう。どんなに遅い人でもそれは同じ。
 一歩を出すのをやめたら、止まってしまうが、一歩ってすごいなぁって思う。

はたまた事件は起こった!

今度の現場はまた駅なのだが、駅に上がる外っかわのエレベーター付近だ。
 電車に乗って帰ろうと駅のエレベーターを目指していた。
 すると、エレベーター付近に柵が立てられ、点検中だということが分かった。
前にもあったことで、点検をやってる人に声をかけたら、その時だけ点検作業を中断してオレを乗せて動かしてくれたし、今回もそうしようと思った。
 しかし、その柵の前に駐輪場の管理をしているおじさんが立っていたのだ。
このおじさんは時々その辺りに立っているので、あいさつくらいはしていたのだが、そのおじさんがオレがエレベーターの近くに行くまでに気をまわして点検の兄ちゃんに声をかけてくれたのだ。
 だがだがだがだ!!!!
 その声のかけ方が意外だった。
「おい!車椅子に乗った子が来やるで〜!何とかしたってくれへんか?」というものだったのだ!
 オレはもういい年で今年は55歳にもなっているのに、「車椅子に乗った子」と言われたのだ!そして点検の兄ちゃんと直接しゃべりたかったが、親切心からだと思うが、間に入ってしまったのだ!
 そして15分待ってくれと言う話になり、5分後に乗る予定だった電車をあきらめ、すぐ近くのコンビニに入り、用を済ませ、戻ってヘルパーさんや家に遅れる電話をかけている最中に、またそのおじさんが近寄って来て「電話しとき、電話しとき。家の人が心配しはるわ!」とオレが既に電話をかけている最中に、大人が子供に言うような態度で言うのだ。
 そのおじさんは70前後だと思うが、子呼ばわりと子ども扱いはないだろうと思いながら、その場はやり過ごした。
 しかし、駅というのは人通りが多く、このおじさんのオレに対する対応を見て、「障害者にはこういう対応でいいんだ」と変な連鎖が生まれなくもないなと思い、後からその駐輪場を管理しているところを調べ、電話でこういった出来事があったといい、そのおじさんに注意するのではなく、社内全体的にこういった事が無いように言ってほしいと苦情を言っておいた。
 オレら障害者が声を出し、言わなければ、障害のない人は気づかないことは多いと思う。身近なところから変えていこう!

またもや駅で

あれは県の集団指導の日だった。
3月23日。去年も同じことが起こり、確かここに書いている。
栗東駅のホームのエスカレーターに乗るのに、同じ電車から降りた他の2本足で歩く客が、ホームから先に居なくなるのを待ってから、黙って後ろにいた駅員が、やっとエスカレーターを車椅子仕様に切り替える操作を始めるのだ。
またまた「すみませんが、他の客が全員エスカレーターでホームから上がるまで待っていただけますか?とか声もかけんと、乗客と思てるのか?」「何で歩けるのに階段行ってもらわんのか?」「歩ける者が優先で、車椅子に乗った障害者は待たせて当然って思てるやろ!」とその駅員に抗議してみた。一応謝ったと思う。
けど、今後、この駅で降りる度にこんなことをするのはかなわんと思い、帰りに草津駅に寄り、正式に「苦情」という形で駅長を呼び出し、栗東駅での出来事を伝え、今後こんなことが無いようにと言って帰ってきた。
しかし、その駅長と思しき駅員もどういう対応をするのか、名前と連絡先まで言ったのに、その後何もなかったので、JR西日本のほうに直接電話をしてみた。
今回こういうことをして分かったのだが、小さな駅とかの駅員はJRの社員ではなく、別の委託会社の人だったことだが、それはさておき、甲西駅の駅員(だったと思う)から電話があり、謝罪と今後の対応を栗東駅の職員と話し合っておくという言葉をもらった。
今度栗東駅で降りるのが楽しみだ!

もう年が明けてしまった。

 読んでもらってる皆さん、あけましておめでとうございます!
 年末に、年内にはアップしようと下書きで途中にしてあった文を明けて出すことになってしまった。
ということで、昨年もいろいろなことがあった。
 前回の日付を見ると7月28日となっている。この2日前に相模原市のあの大量虐殺事件が起こっている。まだ感情と事件の様子が理解できずにいた頃だったと思う。
 そしてこの日の昼に、近しい人が亡くなったという報告をもらった。そして7月29日にはこれまた近しいまちプロのメンバーが亡くなっっている。
近しい人の命が去って行ったり、大量の障害者の命が奪われたりといった事が経て続きに起こった。近しい人が亡くなったのは悲しいが、仕方がない。いつかは消えるものだ。しかし、相模原の施設内で起こされた大量殺人は「仕方がない」では済まされない事件だ。
 あれから時間が過ぎて行く中で、徐々に相模原の虐殺事件の事実が明らかになっていき、オレもいろいろと考え、感じて文書化もした。
 年が明けた今、改めて、あの忌まわしい事件について、感じるところ、考えるところを書いてみたい。くしくも今日は2日で書き初めの日だ。
 年末に今年の出来事として世間ではいろいろな出来事を出していたが、相模原の事件は無かったかのようにどこにも取り上げていないように思う。
 オレの中では昨年の一番大きな出来事はやはり相模原事件だ。
 この事件がまずは神奈川県内で起きたという事実にオレは深いモノを感じている。
 神奈川県と言えば70年初頭に障害を持った子が実の母に殺され、それについての住民の減刑嘆願運動に抗すべく神奈川青い芝の会が脳性マヒ者としての立場で、殺される側の立場で初めて世間に声を上げた地だ。その後には川崎駅で車いすの障害者のバスの乗車拒否があり、俗に言いう「バスジャック」という事件が起き、その後の運動の結果として、全国に先駆けて駅のエレベーターやリフトバスの導入がやられていた地だったのだ。
 青い芝が全国に広がるきっかけを作った地なのだ。
 その地であんな凄惨な事件が起きようとは!・・・
 改めて青い芝の会の行動綱領が頭をよぎる。
 全部で4・5個あるのだが、その中の一つ、「我々は脳性マヒ者として自覚する」。これは、社会の中にあっては、殺される立場であることを自覚するという意味だ。そして、一つ、「我々は強烈な自己主張を行う」。これは、殺される側からの叫びを殺す側の者に伝えるということ。我々を殺すような社会のどこがいい!と。そして、一つ、「我々は問題解決の路を選ばない」。安易な妥協は許さないという意味。
 そしてまた一つ、「我々は愛と正義を否定する」だ。正に今回の容疑者が言っていると報道された「正義」の名の下に障害者は殺されたのだ。しかも愛と正義の障害者収容施設の中でだ。そして最後に(これは全国青い芝の会の行動綱領に後で付け加わったのだが)「我々は健全者文明を否定する」というもの。
 人の命の価値を能力や見てくれでのみ判断する、力の文明である「健全者文明」を、オレら障害者を人間扱いしてこなかった「健全者文明」を、楽ばかりを追い求める「健全者文明」を、力のない、逃げられない、殺される立場から否定するということなのだ。
 だからこそ、このオレらを無視しきり声を聞くことさえしなかった健全者のみで作り上げてきたこの社会を変えようと、今まで活動してきたのだが。
 最近はオレは幻想を見てきたのかもしれないと思う。一見障害者を取り巻く情勢は良くなってきたという。
 本当に厳しく、オレ自身が問われていると思う。